御三家・徳川家廟所、長保寺(国宝)
国宝・長保寺は長保2年(1000年)一条天皇の勅願をうけて性空上人により創建されたと伝えられています。一条天皇には「定子(ざいし)」と「彰子(しょうし)のお二人の皇后が在りましたが、定子皇后のお付の女官が「枕草子」を書いた清少納言。彰子皇后のお付の女官は「源氏物語」を書いた紫式部です。
本堂(1311年)国宝
多宝塔(1356年)国宝
大門(1388年)国宝鎮守堂(1295年)といった主要なお堂は鎌倉時代に至り再建されたものです。
長保寺は天台宗として創建されましたが、その後、法相、天台と変わり、現在あるお堂が再建されたころは真言宗のお寺でした。
寛永6年(1666年)に紀州徳川家初代藩主頼宣により菩提寺に定められました。
そのときに天台宗に改められました。江戸時代になって、本堂背後の山の斜面に広大な藩主廟所が造営されたのです。
本堂・塔・大門と3つ揃って国宝である寺は奈良の法隆寺とこの長保寺だけです。
大名墓所としては全国一の規模です。
この様な長保寺は田舎にあるが故、和歌山人でも知らない人が多いのです。
下津町のJR下津駅から山のほうへ昔は道も細く車の駐車場も無かったのですが
最近長保寺パイパスもつくられて道も整備されています。駐車場もあります。
是非一度お尋ね下さい。拝観料は300円です。付属する歴史博物館は無料です。
下の画像をクリックして下さい。29枚の写真がスライドします。
左下に簡単な説明をいれています
本堂(1311年)国宝
多宝塔(1356年)国宝
大門(1388年)国宝鎮守堂(1295年)といった主要なお堂は鎌倉時代に至り再建されたものです。
長保寺は天台宗として創建されましたが、その後、法相、天台と変わり、現在あるお堂が再建されたころは真言宗のお寺でした。
寛永6年(1666年)に紀州徳川家初代藩主頼宣により菩提寺に定められました。
そのときに天台宗に改められました。江戸時代になって、本堂背後の山の斜面に広大な藩主廟所が造営されたのです。
本堂・塔・大門と3つ揃って国宝である寺は奈良の法隆寺とこの長保寺だけです。
大名墓所としては全国一の規模です。
この様な長保寺は田舎にあるが故、和歌山人でも知らない人が多いのです。
下津町のJR下津駅から山のほうへ昔は道も細く車の駐車場も無かったのですが
最近長保寺パイパスもつくられて道も整備されています。駐車場もあります。
是非一度お尋ね下さい。拝観料は300円です。付属する歴史博物館は無料です。
下の画像をクリックして下さい。29枚の写真がスライドします。
左下に簡単な説明をいれています

この記事へのコメント
大事になさってくださいね。
国宝のお寺、長保寺。素晴らしいですね。
29枚も国宝の長保寺の写真を拝見できてラッキーでした、
はじめの写真は、里山を背景にして、暖かそうな陽射しに
つつまれた長保寺ですね。
腰痛なのに、キーを打つのも大変だって言う
のに、私のブログに来てえ~っておねだり
しちゃってごめんなさい。
もう、ムリはしなくていいですぅ。ごめんね?
もう、ムリは言わないから。
世話役さん
ドンとボスのママさん、
さよちん、
皆さん、コメントありがとう。まだ腰が痛いのにこれから自治会の役員会へいってきます。今晩は相当もめるかも・・・大変です。ブログは楽しいですがこんなのはイヤですね。
主人は熊野古道ウオーキングが大好き人間で、先年海南から歩いて長保寺に行ったそうです。
改めて写真に見入っております。
家に居ながら名所案内されているみたい。
何だか観光気分になりました。
徳川家康さんは色々な所をガードしていますね。
彼の業績でしょうが、十五代まで徳川幕府が続いたのもうなずけます。
なんて事を考えながら彦左さんのスライド写真見させて頂きました。
昔の道は七曲といって山の中腹まで登って下るのです。
恵雅さん、何故、徳川幕府が紀州を大事にしたか?それは交通の便が良かったのですね。陸路だと江戸から一番離れている紀州も船では便利でした
コメントありがとうございました。
長保寺の29枚の写真がスライドを見せていただいたので 居ながら長保寺を散策できました 行ってみたいですが 最後の階段はとても無理みたい
花の寺と云われるのが 納得できますよね
桜の時期はいいですね。昔一回だけ大阪のお客さんを連れて桜の時期に行ったことがあります。その当時は道も細かったですね。